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HOME村政情報村の紹介小川村の歴史

小川村の歴史

歴史

縄文時代

筏の縄文土器写真

筏の縄文土器

小川村では昭和55年より4ヶ年にわたって筏遺跡の発掘調査を行って多数の石器、土器、土偶、やじりのほか住居跡の確認がされた。年代は紀元前5千年の縄文中期と推定されている。

平安時代

律令制の西紀800年代に入ると竹生郷があり、ついで延長5年(927)の延喜神明帳に小川神社の登載がある。これはこの年代に村落形式があり、住民によって宮の奉祀のあったことのあかしである。
小川村は昔から戸隠三院との係わりがあって、戸隠三院の差配をしていた顕光寺が小川庄を鳥羽院に寄進し、皇室の荘園となった。天養2年(1145)に小川荘内におこった争乱に対し鳥羽院から小川庄公文所への下文(くだしぶみ)が天養文書である。この年代の伝承に小川真人がいるがこれが小川を称名する緒口になったと推考される。荘園時代は以後300数十年に及び皇族領として伝領された。

室町-安土桃山時代

戸隠神社信仰遺跡写真

戸隠神社信仰遺跡

鎌倉時代の建久6年(1195)源頼朝の下命によって建立された高山寺三重塔がある。南北朝末期、小川左ェ門真綱の古山小川城時代があって、小根山額塚の宝篋印塔の石造物はその年代の文化遺産である。天文5年(1536)大日方長政が小川氏に替わり、天文21年(1552)武田信玄に属し慶長初年までに亘った。永祿7年(1564)武田、上杉の対戦で戸隠三院が筏ヶ峰に避難し30余年の居住という歴史があった。

江戸時代

元和8年(1622)より松代藩の治政となり真田氏が藩主で、10代250年にわたった藩初期の小川村は、久木、上野、花尾、夏和、竹生、小根山、椿峰、和佐尾、古山、瀬戸川の10ヵ村であった。その後、瀬戸川と古山村が合村したが、寛永18年に分村、享保10年には瀬戸川村から馬曲村が、享保14年には埋牧村についで成就村が分村した。嘉永6年椿峯村から飛地の立屋が独立して立屋村が誕生した。この時代の分合村は肝煎(名主)など村役統治の難易にあったとみられる。なお松代藩は藩境に番所を置いた。小川村には立屋、日影、桐山の三番所があった。

明治・大正・昭和時代

明治年間になり、藩籍奉還によって松代藩の所轄となり、更に廃藩置県の令が出され、松代県となり明治4年には長野県と改められた。また、明治5年1月瀬戸川、古山を合して瀬戸川村となった。
明治8年立屋村が小根山村と合した。また同年和佐尾、椿峰の両村が合して稲丘村となり、久木村は竹生に合して、高府村と改められた。この年、押切一の坂は分村して日影村(鬼無里村)に合併した。
年を追って行政区割の変革がはげしく、明治12年上水内郡に属し、同22年4月村制施行により、高府村、小根山村が合併して南小川村に、瀬戸川村、稲丘村が合併して北小川村と改称された。そして昭和30年4月1日町村合併促進法の本旨にのっとり、南北小川両村が合併して小川村となり、現在に至っている。

明治以降の合併系図

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